いきおくれ女子いろいろウォッチ

映画の備忘録として

黄金町の思い出ーオウム真理教とか、A2、ヤクザと憲法

もうかれこれ20年くらい前のお正月の事だ。
当時、私はタイ料理にはまっていた。(今でもタイ料理は大好きだが、当時はドハマりしていた。)その日は、若葉町の馴染みのタイ料理のレストランで、友達と待ち合わせをしていた。
黄金町からの通い慣れた道は、その日は全く人気がなかった。お正月休みの午前中にしても、変だった。
そして、さらに異様なのは、脇道全てにグレーの人員輸送車?が止まっているのだ。警官もいる。脇道毎にいる。頭上には複数のヘリコプターの音がする。
こりゃ、なんか事件でもあったのかな〜と思いながら、お店に向かった。既にお店にいた友達に「なんか外凄いんだけど、また発砲事件でもあったの?」(大通公園とか日の出町とか、横浜もあの界隈は色々物騒だったのですよ、昔は。)呑気にたずねると、「オウムの上祐さん、出所したでしょ。」「あー、横浜にいるんだよねー」「そう、すぐそこ。そこにいる。」「はぁ?」
そう、すぐそこに上祐さんがいたのだ。
私達のいたタイレストランから、ほんの数ブロック先のオウムの施設に、上祐さんはいたのだ。
一昨年だったか、森監督の「FAKE」公開時に特別上映された「A2」を見ながら、思い出していた。
「A2」では、田舎の教団施設から黄金町に移ってきた男性信者が森監督のインタビューに答えて、「性欲は押さえている。でも、こっちに来て、久しぶりにそういった夢を見た。」というような事を生真面目に答えていた。
そうだよね、あの頃のあの辺りは、立ちんぼとか沢山いたしね。ちょんのまで働いているタイの女の子達が「中国人、信じられない!ゴム無し1万円で商売してる!病気怖いし、1万円じゃ家族養えない!」とかレストランで愚痴言ってたりして、中国の価格破壊凄いな、とか思ったりしていた時代だ。
今では考えられないかもしれないが、あの頃の若葉町は、夜、女が一人で出歩けるような街ではなかった。だから、私達はいつも休日の午前中にタイ料理屋に通っていた。大岡川沿いなんて、昼間でもカタギの日本人女性には近付く事は出来なかった。だが、あの界隈の外国人はほぼノービザなので、彼らから進んで堅気の日本人と揉めるような事はしない。こちらが礼儀正しく大人しくしていれば、日本語が通じにくいタイレストランでも問題は無かった。
当時は、今のように誰もが携帯電話を持っているような時代ではなかった。だから公衆電話がそこかしこにあった。黄金町の駅前にある公衆電話は、ボックス一杯にテレクラのチラシが貼ってあり、恐ろしく臭かった。改札からすぐの裏道は真っ暗で、覗き見る事すらためらわれた。そんな街だった。
高校時代の友達は、高校卒業後に医療事務の資格を取って阪東橋のあたりの病院で働いていたのだが、「こんな汚い街大嫌い。」と常に言っていた。そして割合すぐに転職していった。確かに汚くていかがわしい街なのだが、私はこの世の周縁部にあるような、どこにも属することの出来ないこの街が、嫌いではなかった。
そんなこんなを、オウム事件の死刑囚の刑が執行されたというニュースを見て、思い出した。

「A2」で印象に残ったエピソードに、恐らく知的障害か精神障害があると思われる信者が出て来るシーンがある。精神的に不安定な彼らを、他の信者達が世話をしていた。物理的なだけではなく、精神的な居場所がそこにはあった。

他にも「ヤクザと憲法」という映画でも、何か障害を抱えている男性が、暴力団に住み込みで暮らしていた。セリフなどは忘れてしまったが、組長が「彼らを見捨てる事は出来ない」といった感じの事を言っていた(と思う。うろ覚え。)

宗教団体や暴力団は、そういった 行き場のない人達が行き着く先でもあったのだ。どちらも、そんな弱者を食い物にしている面もあるのだが、どこにも行き場のない人達の受け皿でもあった。(善し悪しは別として。)家族と折り合いが悪く、地域社会からも疎まれて、はみ出した人達が流れ着き、生きていく事が出来る場所だったのだ。

今では、どちらも規制されてしまい、あの人達はいったい何処へ行ってしまったのか。

 

オウム事件で13人もの死刑がほぼまとめて執行された事には、非常に強い衝撃を受けた。麻原元死刑囚とその他の弟子たちが、同時に刑が執行されたのは、全く理解出来ない。

私は、死刑制度は、廃止すべきではないと思っている。しかし、死刑は積極的に執行されるべきではない、と思っている。死刑執行には、慎重の上にも慎重を重ねなければならない。

私が死刑制度に期待しているのは、法抑止力である。実際に死刑が執行される事は望んでおらず、やむにやまれぬー例えば、麻原元死刑囚に刑が執行されたようなー時のみに執行されるべきであると思う。そして、死刑制度を廃止すべきではない、と思っているのは、今のこのご時世に死刑制度を廃止したら、死刑制度を復活させることは、おそらく不可能であると思われるからだ。
だが、現在のこの厳罰化の流れの中で、こんなにも軽々しく死刑が執行されるのを目の当たりにすると、その考えにゆらぎが出てくる。その他にも、状況証拠だけで死刑判決が下されたりする現状をみると、死刑制度に疑問を持つ。

 

今年は本当に色々な事が起こり過ぎて、なんだか思考をまとめている暇がない。

 

女子高生コンクリート詰め殺人事件の犯人の再犯について、未成年にも厳罰で対応すべきだった、という意見には、私は同意できない。あれは、厳罰化で解決できる事ではなかったと思う。

子供達がノリか格好つけか何かでやり過ぎてしまい、自分達で止める事が出来なかった時に求められるのは、常識ある大人の介入ではないか。確か、あの事件では、女の子は一ヵ月以上監禁されていたと思うが、その間に周囲の大人が適切に介入していれば、少なくとも最悪の事態だけは避ける事が出来たかもしれない。最悪の事態が起きてしまった後に厳罰で対処しても、被害者そして加害者の人生も、破壊されてしまったものは元には戻らない。

 

ネットにまつわる事件についても、我々は今後は適度に介入する必要があるのではなのではないか。規制するのではなく、やり過ぎない様なルールというか規律というか、そういったものを作ることが出来ないものか。それはやってはいけないよ、そうしないとお巡りさんに逮捕されちゃうよ、という感じで。

例えば、煽り行為について、事情聴取ではなく殺人教唆や幇助などで告発するなど。強制的にネット弁慶をやめていただく。そうすることにより、ネット弁慶をご卒業したくない人達にプレッシャーを与えていくことで、ネットから飛び出してしまう、自らネット弁慶をご卒業される人達を出さないようにする。ネット弁慶規制法、いや、規制は反対なのだが、どうにかして秩序を作ることは出来ないものか。無理かな〜。頭のいい人達でなんか考えてくれないかな〜(人任せ〜)