恐怖についてー霊的ボリシェヴィキ
二月に公開されてから、なんだか予定があわず見逃していた「霊的ボリシェヴィキ」をギリギリ見ることが出来た。
見たい映画は沢山あるが、縁なく見逃す事もある。そして、不思議な縁で見る事になる映画もある。
劇場での上映終了間近のこの時期に、ポッカリ時間が出来て、見に行く事が出来た。
感想。
一言、怖かった。
私は、かなり小心だと思う。
映画を見ていると、割りとしょっ中ビクっとしている。
子供の頃は、家族みんなでテレビで見ていても、怖いシーンは苦手だった。ジョーズとかも、ダメだった。
しかし、段々と知恵がついてきて、中学・高校くらいになると、あれは全て作り物だ、という事を理解する。そうすると、その作り物を作る為の、全くもって無駄で馬鹿馬鹿しい努力を味わう事ができるようになった。この頃は、スプラッターが大好きだった。
そして、薄汚れた大人になった私は、人間の本気を味わうようになった。(インターネットの本気ではありません。)
本気で魂込めて作っている作品と、そうでない作品は明らかに違う。
例えば、グロシーン。
どれだけハラワタをぶちまけようと、計算を感じるものは、それ程怖くはない。
逆に腹わたをぶち撒けるシーンを撮るために作っている映画は、例え低予算でチャチなところがあっても、ぬら付き具合などが妙に気持ち悪かったりする。
商業映画は、沢山の人に見てもらってお金を稼ぐのが目的なので、楽しませてなんぼな為、不快で非道徳的な事柄は、うまい具合に隠そうとする。恐怖というものもある種の娯楽なので、無くしはしない。しかし、生々しさが出ないように加工して、あくまでも娯楽として消化出来るようにする。これは、ほとんど怖くない。楽しむ為に作られているから。
残酷な現実、容赦ない現実を描く為に、陰惨な表現が必要な場合もある。その場合は、他に描きたい物があるので、その邪魔にならないように、限界をさぐりながら描く事になる。これは、なかなか怖い事もある。
ただ、恐怖を描きたい映画は、本気で怖がらせようとしてくる。大体が低予算映画なのだが、ありとあらゆる手を使って、知力体力時の運全てを注ぎ込んで、怖がらせにくる。これは、怖い。そして、笑える。
愛情の反対が憎しみでは無いように、恐怖の対極にあるのは、笑いではない。笑いと恐怖は愛情と憎悪のように、非常に近しい関係だ。恐怖のあまり笑ってしまうような映画、これはかなり怖い映画だと思う。
その他にも、自分の中の幻影をなんとかして表現しようとする映画も怖い。CGで片付けず、特殊メイクや造形で手作りしてくる奴らは、怖い。ゾッとするような怖さがあるのだ。
「霊的ボリシェヴィキ」は自主制作らしいが、非常に低予算感溢れる手作り映画だった。
脚本、演技、効果音、これだけ。
本当にこれだけ。なのに、怖い。
ストーリーなんて、ない。
霊的存在を呼び寄せるため、あの世に触れた事のある人たちが集められ、一人づつ自分の体験を話していくという実験が行われる。
これだけ。
本当にこれだけ。なのに、怖い。
特に怖かったのは、韓英恵が語るところ。なんというか、あの端正な顔が乱れ、まるで異質な物に作り変えられるのを目の当たりにするのだ。
あそこ、なんか画像処理してるよね?私そういうのよくわかんないんだけど、あれは、なんかしてるよね?なんなの、あれ。本当に怖かったんだけど。
コティングリー妖精事件も、恵比寿映像祭で見たばかりだったので、非常に生々しく感じてしまい、そういったところも、やめて〜、となった。
失礼な言い方かもしれないが、非常に安っぽい映画だった。刺激も少なく感じる人もいるかもしれない。でも、怖い。
娯楽として消化する事の出来ない、ホラー映画だった。久しぶりに、本気で怖がる事の出来た、ゾッとする映画だった。